伊賀の國なばり
全国に30,000 社あるとも言われる『お稲荷さん』のひとつが三重県名張市瀬古口に鎮座する『稲荷神社』です。この稲荷神社は 、一般に『お宮さん』、『お稲荷さん』と呼ばれています。私たち地域の住民にとって、身近な存在の神社です。
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稲荷神社は、五穀豊穣、商売繁栄、家内安全、諸願成就の神として近隣の方々にも親しまれています。
祭神
宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)
大物主命(オオモノヌシノミコト)
火之迦具土神(ホノカグツチノカミ)
由緒
当神社創祀の年代は、古伝によると今から四百有余年前 、 稲荷大神が山城國伏見より河内國、大和國を巡り、伊賀國の当地に鎮座したと伝えられています 。 「神社記」によれば慶長二年(1597年)京都伏見稲荷大社より御分霊勧進したとあり、五穀豊穣を守る崇神として人々の信仰の中心となっています 。 明治四十年(1907年)の神社法改正により大字中村五百刈『三輪神社』、瀬古口順添『金刃比良神社』、同愛宕谷『愛宕神社 』の三社に奉斉されていた神々が同年十二月九日ここに合祀され今日に至っています 。 三輪神社は、「神社記」によれば人皇十代崇神天皇六十四年 に 大和國笠縫より市守宮に移って鎮座し、大物主命が祀られているとあり、また天智天皇がここに行幸されたとの言い伝えが残っています 。 秋の例大祭には、稲荷神社と並んで桜井市の三輪明神『大神神社』に神饌を調進することを例としています。
金刃比良神社は、大物主命を祭神とする社でありますが、勧進年代は明らかではありません 。 愛宕神社は、古伝によると安永四年(1775年)山城國愛宕山大権現を勧進したとあり火之迦具土神が祀られています。
建速須佐之男神命(タテハヤスサノオノミコト)
祇園社は、寛政年間に諸方で疫病が流行し、村民がその患いを恐れて尾張國津島明神に参詣して神礼を受け、享和二年(1802年)に社を建立し祇園と称したことに始まり、参詣者が多く明治以前は旧暦六月七日より十四日までを祭日と定めいていました。
近年では七月十四日を祭日とし、この日に近い休日に行事が行われ、地域の人から『祇園さん(ぎょんさん)』と呼ばれ崇敬され ています 。
大山祇神(オオヤマツミノカミ)
当地祭祀の起源は明らかではありませんが往昔より山の祭神として崇敬されています。
宵にウツギの枝で作った鍵をしめ縄に引っかけ、山の神に豊作を祈願し福を引き寄せます。
瀬織津姫(セオリツヒメ)
川徳社は、稲荷神社の西方に宇迦之御魂神を主神として鎮座しています。 寛永年間に諸災続きのため、山城國愛宕神社の火之迦具土神を御分霊勧請されました。 往昔より簗瀬の川べり(名張川河畔)に水の神として祀られていました。 また、のちに瀬織津姫を合祀し、河徳大明神として祀られていましたが、近年になって現在の境内社となり、川徳社として鎮座しています。
646年(大化2年)に発せられた改心の詔(みことのり)には、「およそ畿内とは、東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来・・・を畿内とす』という畿内の範囲を示しています。 畿内とは、都に近い地域をさし、主に大和、山城、摂津、河内、和泉の5國からなりました。
横河とは稲荷神社の北側を流れる名張川をさすという説が有力で、瀬古口を含む箕曲地区は畿内(都の地域として)の東の端にあったことを示します。
「式年遷宮」の実施は、伊勢神宮が代表的ですが、期間を定めて社殿を更新し新たな社殿に神体を移すことをさします。
稲荷神社においても「常若(とこわか)」という常に新しく清浄であることを大切にする考え方から、効果的な修復などの整備事業を二十年を周期として設定し、「式年造営(ぞうえい、またはぞうく)」と称し、整備の度合いや数量に応じて予算措置を施し、これまで長く継承しこれを営んできました。
稲荷神社の思い出
稲荷神社に関するエピソードは
コチラからご確認ください。
所在地:〒518-0445 三重県名張市瀬古口277番地
電話番号: 0 5 9 5 – 4 1 – 1 5 2 2 (FAX共通)
eメール: info@inarijinja.mie.jp
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